風の歌を聴け(四畳半フォークソングver.)

ランニングとは自分の身体との対話。

村上春樹が代表的だが、ランニングを嗜む作家や学者はこういった物言いをする人間がいたりする。

まあ、それはそうだろう。村上春樹の小説は特に好きでもないが、彼の例の走ることについてなんたらかんたら、あれは好きだ。そうば、蛇足だが村上のコラムは面白い。要はフィクション風味が薄い方が独特の(好き嫌いが異常に分かれる)文体が功を奏している。気がする。

わたしとしては身体との対話なんていうとスピリチュアルな響きがして、お高く止まってるように思ってしまう。俗っぽくなると、ある種の人種は息が身動きがとれなくなってしまうのか。

いや、それもある種の物語なんだろう。野球には野球の、サッカーにはサッカーの、マラソンにはマラソンのそれがあり、草野球に励むおじさんたち、フットサルに興じる若い人たち、同じように市民ランナーにも物語があるのだ。それが村上文体に落とし込まれたり,『BORN TO RUN』に化けたりする。

まあ、今思えば『BORN TO RUN』はNIKEのビジネスだよねと。全ては資本主義である。

NIKEは新たなアイテムの創出が本当に上手い。先進的というか。できるだけ正確に言うなら創出の演出が上手いのか。

adidasはそこら辺が弱いよね。ブーストの打ち出しがタイミングと立ち位半端さで、後発組のNIKEにかっさらっていかれた感がある。スーパースターやスタンスミスなどの懐古的価値が見出だせるものの維持については強いけども。

ちなみにわたしはadidasのスニーカーやランニングシューズとはすこぶる相性が悪い。端的に足が合わない。スタンスミスがアップデートされようが華麗にスルーである。

これも身体との対話による結果なのだ。

…あまりにも適当すぎるな。うん。